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河井継之助・八十里越・只見(2016.12)

現地指導(甲信越) 現地指導(東北)

年末最後の三連休に長岡と只見に行ってきました。出掛ける先には何かしらの物語というほど立派なものではありませんが、意味を持たせることを大事にしているので今回は戊辰戦争河井継之助をテーマにしてみました。

お馴染みの上野駅05:13発で高崎へ向かおうとするも、車両点検で上野駅の乗継に間に合わず。やむを得ず特急券に課金して新幹線で高崎に先回りして、元の行程に復帰しました。長岡では山本五十六記念館と河井継之助記念館へ。どちらも撮影禁止だったので写真はありません。

長岡藩は新兵器で善戦しますが徐々に兵力で勝る新政府軍に押されて長岡城を奪われてしまいます。その後、再び奪還することに成功しましが、河井継之助の受傷等で再び長岡城を奪われ河井継之助は八十里越を経て会津方面へと敗走します。明治維新後の長岡藩戊辰戦争によって困窮を極め、三根山藩(現在の新潟市西蒲区峰岡)より米百俵の義援米を受けます。この時の長岡藩大参事であった小林虎三郎は…

百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる

として、米を全て売却して国漢学校(国漢学校→長岡洋学校→新潟県立長岡高等学校)を開設し、その卒業生に山本五十六が名を連ねます。

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小出から只見線で六十里越を経て只見へと向かいます。新潟と福島は長い距離で隣り合う県ですが国道は僅かに5つ(自動車が通れる国道は4つ)しかありません。

先程も少し触れましたが、河井継之助は長岡からの八十里越で会津を目指しました。八十里越は南会津と三条の最短ルートとして以仁王上杉謙信も通ったとされる古くからの街道でしたが、六十里越(元々は魚沼方面からの最短ルート)に車両通行のできる道路が開通したことと只見線が開通したことにより六十里越ルートが一般的になりましたが、冬期は通行できないので只見線を利用するか大きく迂回して越後街道を利用する以外の方法しかありません。しかし、南会津地域での大型車のすれ違い困難区間の解消、救急搬送の向上など冬期も通行可能なルートを確保することを目的として、国土交通省北陸地方整備局が主体となりトンネルや橋梁で貫く工事が進められています。約30年の工事を経ていますが、豪雪地帯での工事であるため5~11月でしか作業ができず時間を要しているようです。開通すれば八十里越ルートが交通の主役となるのかもしれませんね。

  • ルート承認:1983年度
  • 用地着手:1986年度
  • 着工:1989年度
  • 進捗度:72%(2016年度時点)
  • 開通見込:2020年代

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当日の只見は吹雪だったので写真がありません。3年前の夏の写真ですが、頑張れば田子倉ダム(ダムカード配布場所は別の場所なので注意)や廃止された田子倉駅にも自転車で行くことが出来ます。道中は山道ですので電動自転車(500円)を借りておくと良いと思います。

翌朝は只見線不通区間(会津川口〜只見)を代行バスで移動します。7:10の始発便は小出からの接続便ではないので乗客は4人でした。 只見線内で車内改札をして代行バス利用者数を調べて必要に応じて代行バスの運営会社にマイクロバスから大型バスへの切り替えをお願いすることがあるようです。 

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河井継之助の終焉の地は塩沢という会津若松方面に約8kmほど北にある場所で、写真の場所ではありませんが、只見川、小さな集落、街道、山のある静かな街でした。

長岡藩新発田藩に裏切られた、米沢藩会津藩の援軍要請を無視した、二本松藩庄内藩は徹底抗戦を貫いたが仙台藩は同盟の義理を果たさなかった…などなど戊辰戦争に関する因縁は今でも聞きますが、一部で未だに史実に反した会津観光史学のような郷土史が伝承されていることは残念に思います。