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京急バス海35系統(2017.1)

海35系統は三崎東岡⇔三浦海岸を結ぶ路線で、東京湾(浦賀水道)・相模湾・キャベツ畑・大根畑といった三浦半島を代表する景色を全てを車窓に含む約50分の路線です。城ヶ島猿島のついでに書こうかなと思っていましたが、本当に景色が良かったので単独記事にすることにしました。 

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三浦海岸駅を発車すると直ぐに神奈川県道215号(上宮田金田三崎港線)へ向かい、浦賀水道と対岸の房総半島を望みつつ入り組んだ海岸線を進みます。景色もよく交通量も比較的少ないのでサイクリングでも人気の道路ですね。

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バスは毘沙門バイパスではなく、三浦七福神の第二番である慈雲寺のある毘沙門地区を経由します。行き違いできないほど狭い道路を進みますが、こうした生活感のある道路を進むことも路線バスの旅の魅力です。なお、この区間を通るため海35系統は大型車(約11m)ではなく中型車(全長約9m)での運行となっています。

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岩堂山の坂を登りきるとキャベツ畑・大根畑・相模湾伊豆大島伊豆半島・箱根・富士山・丹沢山地の広がる景色へと変わります。

路線バスでの移動は効率の良いとはいえませんが、自動車や列車だと気付かずに通過してしまうような生活や歴史の雰囲気を身近に感じることができると思います。

久留和漁港・城ヶ島(2017.1)

三浦半島を主に路線バスで巡ってみました。鎌倉などで一泊する利用者を想定した2day切符を購入しましたが、フリーエリア以北の運賃等を払えば二日連続で東京からの利用も可能です。

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金沢八景で下車し、朝比奈峠を経由して鎌倉へバスで向かいます。逗子、林を経由して最初の目的地である久留和漁港へと向かいました。詳細は分かっていませんが、生簀と防波堤を結ぶトロッコであったことは間違いないようですが、その生簀ではおそらくその伊勢海老やアワビなどを一時保管するために使われていたのではないかというところまでしか分かっていません。

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橋は橋桁をレールが兼ねた非常に簡素な構造になっています。海面から約2mですので、波の高い日は波がレールを直撃するであろう高さです。この場所は有名ですので、ネット上には幾つも同様の写真があり徐々に崩壊している様子がわかると思います。

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その後は三崎口経由で城ヶ島へ。日本の地質100選に選ばれているように地質とかの視点で観察すると面白い島ですが、残念ながら義務教育レベルの知識しかないので特に書けることがありません。今でも太平洋プレートは年に約1mmの速度で動いており、1000年後には城ヶ島の南部の海底が隆起し遠浅の海と岩礁が広がり、100万年後には相模湾はなくなり三浦半島は1000mの山になると予想されているようです。

河井継之助・八十里越・只見(2016.12)

年末最後の三連休に長岡と只見に行ってきました。出掛ける先には何かしらの物語というほど立派なものではありませんが、意味を持たせることを大事にしているので今回は戊辰戦争河井継之助をテーマにしてみました。

お馴染みの上野駅05:13発で高崎へ向かおうとするも、車両点検で上野駅の乗継に間に合わず。やむを得ず特急券に課金して新幹線で高崎に先回りして、元の行程に復帰しました。長岡では山本五十六記念館と河井継之助記念館へ。どちらも撮影禁止だったので写真はありません。

長岡藩は新兵器で善戦しますが徐々に兵力で勝る新政府軍に押されて長岡城を奪われてしまいます。その後、再び奪還することに成功しましが、河井継之助の受傷等で再び長岡城を奪われ河井継之助は八十里越を経て会津方面へと敗走します。明治維新後の長岡藩戊辰戦争によって困窮を極め、三根山藩(現在の新潟市西蒲区峰岡)より米百俵の義援米を受けます。この時の長岡藩大参事であった小林虎三郎は…

百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる

として、米を全て売却して国漢学校(国漢学校→長岡洋学校→新潟県立長岡高等学校)を開設し、その卒業生に山本五十六が名を連ねます。

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小出から只見線で六十里越を経て只見へと向かいます。新潟と福島は長い距離で隣り合う県ですが国道は僅かに5つ(自動車が通れる国道は4つ)しかありません。

先程も少し触れましたが、河井継之助は長岡からの八十里越で会津を目指しました。八十里越は南会津と三条の最短ルートとして以仁王上杉謙信も通ったとされる古くからの街道でしたが、六十里越(元々は魚沼方面からの最短ルート)に車両通行のできる道路が開通したことと只見線が開通したことにより六十里越ルートが一般的になりましたが、冬期は通行できないので只見線を利用するか大きく迂回して越後街道を利用する以外の方法しかありません。しかし、南会津地域での大型車のすれ違い困難区間の解消、救急搬送の向上など冬期も通行可能なルートを確保することを目的として、国土交通省北陸地方整備局が主体となりトンネルや橋梁で貫く工事が進められています。約30年の工事を経ていますが、豪雪地帯での工事であるため5~11月でしか作業ができず時間を要しているようです。開通すれば八十里越ルートが交通の主役となるのかもしれませんね。

  • ルート承認:1983年度
  • 用地着手:1986年度
  • 着工:1989年度
  • 進捗度:72%(2016年度時点)
  • 開通見込:2020年代

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当日の只見は吹雪だったので写真がありません。3年前の夏の写真ですが、頑張れば田子倉ダム(ダムカード配布場所は別の場所なので注意)や廃止された田子倉駅にも自転車で行くことが出来ます。道中は山道ですので電動自転車(500円)を借りておくと良いと思います。

翌朝は只見線不通区間(会津川口〜只見)を代行バスで移動します。7:10の始発便は小出からの接続便ではないので乗客は4人でした。 只見線内で車内改札をして代行バス利用者数を調べて必要に応じて代行バスの運営会社にマイクロバスから大型バスへの切り替えをお願いすることがあるようです。 

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河井継之助の終焉の地は塩沢という会津若松方面に約8kmほど北にある場所で、写真の場所ではありませんが、只見川、小さな集落、街道、山のある静かな街でした。

長岡藩新発田藩に裏切られた、米沢藩会津藩の援軍要請を無視した、二本松藩庄内藩は徹底抗戦を貫いたが仙台藩は同盟の義理を果たさなかった…などなど戊辰戦争に関する因縁は今でも聞きますが、一部で未だに史実に反した会津観光史学のような郷土史が伝承されていることは残念に思います。

恩賜上野動物園(2016.12)

気分転換に上野動物園に行ってきました。動物のことは全く知りませんので簡単に写真だけ紹介する更新にしようと思いますが、その前に簡単に恩賜について触れておきます。

恩賜といえば、上野公園・井の頭公園・浜離宮庭園などが有名ですが恩賜公園・恩賜庭園・恩賜林といった土地の下賜だけではなく、金銭の下賜も存在しており御下賜金と一般からの寄付によって設立された済生会病院があります。なお、第二次大戦終戦に伴い恩賜財団は解散しますが、社会福祉法人としての社会福祉法人恩賜財団済生会(恩賜財団の名称は引き継がれる)として再出発します。済生会の「済」は経世済民と同じく救うの意味で、「生」は生命を意味しており、命を救うという意味になります。

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クロサイのマロ(雄)

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 ベニイロフラミンゴ 

羽だけにスポットを当てて撮ってみました。平均寿命は約40年で鳥類の中では長い部類に含まれるようです。

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リーリー(雄)・中国名:比力

  • 2005年8/16 臥龍保護センター生まれ
  • 2011年2/21 来日

元気に動いているパンダが観たい方が多いと思いますので、調べた範囲内で餌の時間を紹介します。もちろん当日の体調等で変更になることもあるようですが、概ね下記のスケジュールになっているようです。

  • ??:?? 朝食
  • 09:30 動物園開園
  • 11:30 昼食①
  • 13:30 昼食②
  • 15:00 昼食③
  • 16:30 昼食④
  • 17:00 動物園閉園 

*便宜的に朝食や昼食として書いています

大雄山最乗寺(2016.10)

紅葉には少し早いのですが南足柄市にある大雄山最乗寺へ行ってきました。

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大雄山線の一日乗車券で小田原から大雄山へ移動してバスに乗り換えて最乗寺へと向かいました。こういった一日乗車券は往復運賃よりも少し高い金額で設定されることが多いのですが、大雄山線の小田原と大雄山の往復運賃と同額なので珍しいですね。なお、大雄山駅と最乗寺のバスは別に普通運賃が必要になります。

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 前日までの雨が残っていたため苔生した石段や石碑は本当に綺麗でした。来年の紫陽花か紅葉シーズンに再訪したいと思います。

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富国徴兵保険相互会社は現在の富国生命相互会社です。その社史によると1936年(S11)12月28日に献納したようで、どういった経緯によるものかは不明です。なお同年の9月には成田山新勝寺にも同様の献納をしているようです

徴兵保険はドイツで始まった保険商品で、日本では明治維新後の徴兵制において普及した保険商品です。最初の徴兵制は家を継ぐ者や代人料を納めた者などは免除されていました。また、当時の日本陸軍は予算が乏しく、教育、食費、衣服は自己負担とせざるを得ない状況でしたが、当時は就職口が少なかったため農家の次男以下の就職口として人気があったため、その費用を捻出するために人気を評した保険商品でした。

徴兵保険とは子供の誕生時に加入し、徴兵に甲種合格した時に約定金額を受取ることができます。また、本人の死亡時にも保険金が支払われるため、両親の老後の費用としても活用されました。1927年に兵役法が成立したことにより志願制度は廃止されたため徴兵保険会社は一般的な生命保険会社へと移り変わりました。日本における徴兵の歴史は概ね下記の通りです。1933年の日中戦争以降において段階的に徴兵基準が厳しくなります。

  • 1872年:全国徴兵に関する詔
  • 1873年:太政官布告による徴兵令
  • 1927年:兵役法
  • 1943年:学徒出陣
  • 1944年:兵役法施行規則改正(17才〜45才)
  • 1945年:国民勤労動員令
  • 1945年11月17日:兵役法廃止→徴兵の法的根拠が失われる

今日の自衛隊においては一切の徴兵が行われていないことは周知のことかとは思いますが、そもそも徴兵できない法的根拠について簡単に紹介します。憲法9条、憲法18条それぞれを根拠とする二説がありますが、憲法18条(その意に反する苦役に服させられない)であると説が通説であり政府見解となっています。

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奥の院への最後の石段は圧巻で216段あるそうです。下りは階段ではなく裏側にある坂道をくだります。なお身延山久遠寺の石段(287段)もオススメです。

復路は山道を下るだけですので大雄山駅まで徒歩でも良いと思います(約30分)。