鬼無里と天武天皇(2017.9)

9/2,3で長野県の鬼無里地区に行ってきたのですが、鬼の無い里と意味深な地名ですので調べてみました。今回は天武天皇による遷都伝説について紹介しようと思いますが、鬼無里の地名の由来ともいわれる鬼女伝説もあり各地によって言い伝えが異なっており調べ始めると非常に多岐にわたる伝承のようですので割愛します。

鬼無里は戸隠と白馬の中間地点に位置する鬼無里盆地を中心とした地区で、主に戸隠方面からの長野県道38号(戸隠往来)と国道406号(鬼無里街道)の交差点が中心街となっています。倶利伽羅峠へ向かう木曽義仲が通ったとされる古くからの古道で、山に囲まれた小さな山村でありながら交通の要衝で江戸時代には関所も設置されていました。

f:id:Account709:20170906154730j:plainさて、本題とも言える遷都伝説についてです。天武天皇(673~686年在位)が飛鳥浄御原宮から信州への遷都を計画していました。各地を巡った使者は水無瀬(今の鬼無里)が遷都に適した場所であるという報告をしました。しかし以前より水無瀬に住んでいた鬼は住処を失うことを恐れたため一晩のうちに山(一夜山)を築き遷都に適さぬ土地へと変えてしまいました。そのことを知った天武天皇阿倍比羅夫を派遣して鬼を退治しましたことで、地名が鬼の無い里となったようです。

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飛鳥(現在の奈良県明日香村)から信州北部への遷都は突拍子もない話のようではありますが、伝説には裏付けがあります。東京(ひがしきょう)と西京(にしきょう)の地名が今でも残っており、東京には加茂神社(賀茂神社)、西京には春日神社が祀られています。賀茂神は平安京春日大社平城京を護る神社であることは有名ですよね。葵祭(賀茂神社)・春日祭(春日大社)・石清水祭(石清水八幡宮)は三勅祭と呼ばれ、天皇の勅使が派遣される皇室と深い関係にある神社です

賀茂神社:京都で最古の神社で平安京の鬼門に位置しています。平安京遷都の際には遷都成功の祈願が行われており、平安京よりも古い歴史があります。

春日神社:710年に平城京遷都の際に鹿島神:武甕槌命(たけみかづちのみこと)を三笠山に祀ったことを起源としており、神社としての成立は768年となっています。春日大社の呼称は昭和21年からと比較的最近のようです。

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天武天皇天皇が代わるたびの遷都ではなく、都市計画に基づく永続的な都を目指し、藤原京として造営(完成は持統天皇の代)しました。また、複都制として683年に難波京(難波宮を引継)を設置し、翌684年に信濃へ使者を派遣したこと自体は記録として残っています。

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現代において「鬼の存在について本当なのか?」という事について疑う人は少ないと思いますが、「これらの話の全てが創作なのか?」と問われれば必ずしも同意できないような1000年の時を越えて伝わる地名に関する伝説に浪漫を感じました。

滑川温泉福島屋(2017.7)

7月中旬に五連休を設定して東北を巡ってみました。その記録は追って公開する予定ですが、今回は滑川温泉福島屋に関してです。

国道13号線(万世大路)板谷峠の県境付近から約10kmほど南西に進んだところにあります。板谷駅周辺の小さな集落を過ぎると民家等は全く存在せず、約4kmほど離れた峠駅が最も近い外界といったところでしょうか。

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 滑川温泉温泉は1742年(文明8年)に斎藤盛房が川で足を滑らせ転倒した際、その時の石が温かかったことで温泉が発見されたそうです。1763年(宝暦13年)に笹木正直(初代当主)が米沢藩の許可を得て開湯しました。

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自動車でアクセスできるとはいえ、かなりの山奥に位置しているおり電力会社の送電を受けることができないため、旅館の目の前を流れる前川に自家製の18kWの水力発電機(一般家庭7軒分の電力量に相当)を設置することによって電力を確保しています。テレビは仙台の各局が写りますし、NTTdocomoのLTEFOMAも若干強度が弱いですが携帯電話も問題なく通信や通話ができます。道路も舗装されていますが、所々で狭い箇所がありますが100mくらい後退すれば行き違いも可能です。

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今回の訪問は行程の都合で湯治宿らしくゆっくりとした時間を過ごすことができませんでした。近くには1941~1970年に採掘された渇鉄を産出した滑川鉱山*の跡地があるようですし、併せて再訪問したいと思える温泉宿でした。

 *滑川鉱山は含有率53%を誇る高品質な鉱山で、戦中は軍需資源として開発され、戦後も東北屈指の鉄鉱山として名を馳せ復興を支えました。一日あたり約100トンの取扱量があり、峠駅までは索道、峠駅から東新潟港までは鉄路、東新潟港から北九州までは海路にて八幡製鐵所まで運んだようです。

切明温泉・河原の湯(2017.6)

少し更新間隔が空きました。今回の訪問先の切明温泉は長野県栄村にあり、秘境100選にも選ばれている秋山郷の最も奥に位置する場所にあります。高崎でレンタカーを借り、越後湯沢、津南町を経由して国道405号線へと進みます。秋山郷秩父の記事に続いての平家落人伝説となりますが、壇ノ浦の戦いに敗れた平勝秀が落ち延びたとの言い伝えが存在しています。

秋山郷とは13の集落の総称で、東西を険しい山に挟まれ、南北を中津川が深い谷底を流れます。僅かに存在する比較的傾斜の緩い場所や平地に集落が点在しています。

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国道405号は群馬県にある野反(のぞり)湖から流れる中津川に沿って整備されており、先述の各集落を経由しつつ上流へと向かい切明温泉まで車の通れる道は続います。道路は細く曲がりくねっており決して快適な道路とは言えませんが、それでも通年に渡って人や物が往来できる道路の存在意義は大きいため雪のない時期は補修工事、雪がある時期は除雪が常に行われている生活に不可欠な道路になります。

なお、切明温泉野反湖の約15kmも国道ではありますが車両通行できない点線国道となっており、約7~9時間を要する登山道になります。ちなみに関東地方を水源とする河川において野反湖(中津川信濃川)と尾瀬沼(只見川→阿賀野川)だけが日本海へと流れ、それ以外の河川は全て太平洋側へと流れています。 

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切明温泉の名物といえば「河原の湯」です。各自が川を掘って湯船を作ります。至る所で温泉が湧いているので川の石を掘り返して湯船を作り、好みの温度となるように川の水を適宜取り込む構造となるように工夫します。しかし、この日は川の水が多かったのか、それとも掘る場所が悪かったのかは分かりませんが、なかなか良い場所を見つけることができず足湯程度の湯船しか作ることができませんでした。 (ネット上を調べた感じだと湯気が立っているので当日は水が多かったのかなぁと思います)

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その後は林道秋山線・渋峠草津を経由して高崎へと戻りました。

秋山郷各集落の住民の数は大都市と比べると非常に少ないもので、それだけの人数のために予算を組むことは必要のか?という問題が生じます。あくまでも個人的な意見ですが、そこに人が住んでいる以上は程度問題であれ生活を維持するために費用を投じるべきだと思っています。田舎があるから都市が成立する訳で採算性だけで論じてしまうことは疑問に思います。例えば採算性(効果)だけで考えたとき、訓練でしか使われることなく廃車を迎える消防車は街に不要であっと考える人は少ないのではないでしょうか。

阪神淡路大震災東日本大震災熊本地震などにおける災害復旧の速さに対する賞賛を多くの機会で目にしますが、その工事をしている人は誰でしょうか?それは皆さんの忌み嫌う公共事業と土木や建築に携わる人達なのではないでしょうか?

最後になりますが「程度問題」という曖昧な言葉に逃げていることは百も承知です。常に自分が都市のインフラを享受し続ける強者であり続ける自信の根拠を考えてみてはどうでしょうか?「コンクリートから人へ」のスローガンが懐かしく思いますが、人の生命や財産や経済活動を守るコンクリートの存在も忘れてはいけないと思っています。

青島(2017.4)

愛媛県大洲市の青島に行ってきました。実は青島へ行くのは二度目で、一度目は波浪注意報で渡船が欠航でした。その時はwillerの1km=1円キャンペーンでの移動でしたので、失ったのは48時間と1000円くらいでしたが、今回は念入りに天気予報を確認して直前に飛行機や宿の予約をいれました。

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松山駅を始発列車で西へと向かい、下灘駅などの風光明媚な瀬戸内海の景色を眺めつつ伊予長浜駅で下車します。松山駅の時点で感じていましたが、全員が伊予長浜駅で下車しました。極端に交通の選択肢が限られる場所だとよくあることなのですが、朝から晩までほぼ同一行程になると自然と仲良くなりますよね。

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青島への渡船は乗船定員34名で、午後便は午前便で島に行った人の数を引いた人数になります。原則として島民の乗船が優先される旨が明記されています。観光船ではないので仕方がありませんが、午前便で島に着くと約8時間の滞在になりますが、時間の持て余しかたに苦労します。

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小さな島に島民が15人しか住んでいないので島には自動販売機や商店もありません。同じ猫島として有名な田代島や男木島などと比べると、ハードルが高いです。午前便は運行しても午後便が波浪注意報などで欠航することもあるようなので、とにかく天気に注意が必要です。

旧浦山村茶平集落(2017.4)

今回は埼玉県秩父市にある茶平集落を訪問しました。茶平集落に関しての記事を考えていましたが、茶平集落を含めた浦山地区の歴史に興味を惹かれましたので今回は茶平集落の写真を交えつつ浦山地区について紹介します。ちなみに浦山という地名の由来ですが、武甲山の裏にあるため裏山、それが転じて浦山という地名になったと言われており、江戸時代中期に執筆された「新編武蔵風土記稿」が最も古い記述とされています。

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秩父盆地から浦山川沿いに外れた浦山地区の歴史は深く、特に最も上流に位置する冠岩集落は、平将門の一族が逃げ延びた集落といわれています。1400年代に建立された落武者を供養するための碑が現在でも残っているようです。源流となる鳥首峠を越えた先は関東管領上杉氏の重臣で、平将門の子孫を名乗る青梅を本拠地とする三田氏(諸説あり)の所領でした。今回は割愛しますが、その青梅や奥多摩には平将門に関する伝説の多い地域でもあります。

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現在の浦山地区は浦山ダム建設によりダム周辺を指していますが、残念ながら湖底に沈んだ集落もあります。その一つが川沿いにあったために水没した寄国土(ゆすくど)集落で、ダムの湖岸を走る埼玉県道77号のトンネルの名前に引継がれ今日まで集落の存在を伝えています。調べた限りで判明している水没した他の集落は、大岩下(おおいわした)・土庄(つちしょう)・道明石(みちあかし)・森河原(もりがわら)の集落です。 

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茶平集落のように山の中腹に集落があったため水没を免れた集落であっても廃村となった集落が幾つもあります。江戸時代中期には裏山地区全体で約17集落に約180軒の規模を誇りましたが、残念ながら今日では辛うじて幾つかの集落は残すのみとなっています。

以前紹介した峰集落ですが、入植者は秩父から来たとされていますので、もしかすると遠い繋がりがあるのかもしれませんね。