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旧浦山村茶平集落(2017.4)

現地指導(関東)

今回は埼玉県秩父市にある茶平集落を訪問しました。茶平集落に関しての記事を考えていましたが、茶平集落を含めた浦山地区の歴史に興味を惹かれましたので今回は茶平集落の写真を交えつつ浦山地区について紹介します。ちなみに浦山という地名の由来ですが、武甲山の裏にあるため裏山、それが転じて浦山という地名になったと言われており、江戸時代中期に執筆された「新編武蔵風土記稿」が最も古い記述とされています。

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秩父盆地から浦山川沿いに外れた浦山地区の歴史は深く、特に最も上流に位置する冠岩集落は、平将門の一族が逃げ延びた集落といわれています。1400年代に建立された落武者を供養するための碑が現在でも残っているようです。源流となる鳥首峠を越えた先は関東管領上杉氏の重臣で、平将門の子孫を名乗る青梅を本拠地とする三田氏(諸説あり)の所領でした。今回は割愛しますが、その青梅や奥多摩には平将門に関する伝説の多い地域でもあります。

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現在の浦山地区は浦山ダム建設によりダム周辺を指していますが、残念ながら湖底に沈んだ集落もあります。その一つが川沿いにあったために水没した寄国土(ゆすくど)集落で、ダムの湖岸を走る埼玉県道77号のトンネルの名前に引継がれ今日まで集落の存在を伝えています。調べた限りで判明している水没した他の集落は、大岩下(おおいわした)・土庄(つちしょう)・道明石(みちあかし)・森河原(もりがわら)の集落です。 

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茶平集落のように山の中腹に集落があったため水没を免れた集落であっても廃村となった集落が幾つもあります。江戸時代中期には裏山地区全体で約17集落に約180軒の規模を誇りましたが、残念ながら今日では辛うじて幾つかの集落は残すのみとなっています。

以前紹介した峰集落ですが、入植者は秩父から来たとされていますので、もしかすると遠い繋がりがあるのかもしれませんね。

大井川鐵道井川線(2017.3)

現地指導(東海)

前回からの続きです

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井川駅より大井川鐵道井川線に乗車し尾盛駅へ向かいます。尾盛駅秘境駅として有名で、現在は周囲には人家がなく駅にアクセスする道路もありません。嘗てはダム建設関係者や林業関係者に利用されたようで、駅周辺には幾つかの石積みの擁壁と廃屋が残されています。

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駅には「茂る緑に豊かな社業 駿遠林業株式会社 尾盛造林所」の看板が辛うじて残っており、調べてみると現在の株式会社スンエン(本社:静岡県島田市)だそうです。詳細は不明ですが、最盛期には小学校や診療所もあったようです。

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今さらではありますが簡単に井川線の歴史を紹介します。

1935年に大井川ダム建設のための資材輸送手段として、大井川電力の出資によって千頭~奥泉堰堤で開通し、翌1936年にはダムの完成により木材で筏を組んで下流に運ぶことが出来ないため木材の輸送手段として転用され1067mmに改軌されました。

1951年からは中部電力が所有することになり、現在の井川線の全線に当たる1954年に千頭~井川~堂平の全線が開通し、奥泉発電所や井川ダムの建築資材を輸送を開始しました。

しかし1966年には木材搬出の拠点であった堂平駅と井川駅~堂平駅間が廃止され、貨物輸送がほぼ終了しました。現在でも少量の貨物輸送を行なっています(いるらしい)が、この時より旅客輸送がメインとなりました。接阻峡から奥泉の小学校などへの通学利用客もいるようですが、ほぼ観光客の運賃収入(定期外収入)に需要に依存しています。なお中部電力は年間約三億円の赤字の補填を行っています。

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1990年に長島ダム建設にともなうルート変更が行なわれ、日本最急勾配となる90‰の急坂となる最短ルートが採用されました。‰は鉄道で用いられる勾配ですが、千分率(‰)を道路で用いられる百分率(%)に変換する時はゼロを後ろから取るだけですので9%となります。1000mの距離で90mの高さを登る坂道(100mで9mの高さ)は車でも急坂ですが、特に坂道に弱い鉄道では一般的なレールと車輪の摩擦抵抗に頼る車両では登攀できないので日本で唯一のアプト式機関車で対応します。僅か一区間だけのための線路設備と電気機関車を用意することは非効率に思われますが、勾配緩和のための迂回等で対応を建設するよりも早くて安かったようです。

静岡市葵区井川地区(2017.3)

現地指導(東海)

三連休を利用して大井川鐵道飯田線を巡ってみましたので、何回かに分けて紹介しようと思います。今回は大井川鐵道乗車前の井川地区についてまとめてみました。

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静岡から井川へのアクセス方法は大井川鐵道しかないと思っていましたが、静岡駅からバスと自主運行バスを乗り継ぐルートでもアクセスできるようなのでバスで向かうこととしました。「自主運行バス」という言葉は聞き慣れませんが、路線バスの廃止で公共交通機関の確保が困難となった地域において、地域住民で組織するバス運行協議会により運行されている路線バスのことです。要するに路線バスと同様に誰でも乗車できるバスですが、その運行の目的は地域住民の生活交通を確保することですので地域住民が優先されます。

井川村は大井川の源流に位置していますが、安倍郡(安倍川流域)であったことを教えてもらったので調べてみました。井川地区は下流の街との交流は接阻峡が障害となったため、静岡方面との交流があり安倍郡となりました。笠張峠→富士見峠(静岡県道189号→静岡県道60号)経由もしくは大日峠(静岡県道27号)経由で静岡方面へと向かう必要があります。いわゆる平成の大合併で編入したものだと思っていましたが、1969年11月1日に静岡市へと編入しています。

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 寸又峡の夢の吊橋が有名ですが、井川にも同名の吊橋が架設されています。全長は約80mで高さは30mあります。

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元々はダム建設の貨物輸送を目的とされた大井川鐵道井川線ですが、現在の終点の井川よりも先に堂平駅があります。1971年まで貨物輸送が行われ、書類上は休止路線ですが事実上の廃線となっている井川駅〜堂平駅(約1km)の区間は遊歩道として活用され線路そのままで開放されています。

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  • 新静岡07:39→横沢08:55 1150円
  • 横沢09:15→井川中学校10:26 700円
  • 井川中学校→夢の吊橋→廃線小路→井川駅 所要時間約45分

次記事へ続く

岩櫃城温泉(2017.3)

現地指導(関東)

東吾妻町にある岩櫃城温泉に行ってきました。特に思い入れがあるわけではありませんが、建物が天守閣を模したデザインになっており草津に行く車窓から気になってはいました。そんな岩櫃城温泉が3月末で閉館するとのことなので行ってみることにしました。

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東京から高崎方面へは高崎線(上越線)が最も速くて本数もある一般的なルートですが、何度も往復しているので、今回は東武東上線八高線経由で高崎へと向かってみることにしました。高崎線中山道であることに対して、東武東上線は川越街道と児玉街道の歴史があります。 

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朝の混雑する池袋方面とは対象的に池袋発車時点から空席の目立つ車内で小川町を目指します。小川町までは10両編成のいわゆる通勤電車ですが、小川町以北はワンマン列車となり雰囲気が一変します。寄居でJR八高線へと乗換、さらに高崎で乗換、目的地である群馬原町駅に到着。 

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ところで岩櫃城温泉の名前のもとになっている岩櫃山の名前の由来ですが、源頼朝浅間山へ狩りへ行く途中に山を見て櫃に似ていると言ったからだそうです。おそらくですが、岩櫃といえば真田信幸や真田信繁を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか?(途中までしか読んだことがないのですが…)池波正太郎の「真田太平記」に登場する真田昌幸の地炉ノ間があったのが岩櫃城です。 *岩櫃城温泉は天守閣を模した建物ですが、歴史上の岩櫃城とは何の関係もないデザインです。 

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岩櫃城温泉くつろぎの館は2017年3月31日を以て閉館します。

  • 泉質:単純硫黄泉
  • 泉温:33.9℃・pH6.5
  • 効能:神経痛・筋肉痛・関節痛など

大谷地下採掘場(2017.2)

現地指導(関東)

小山から桐生を経由し渡良瀬川沿いに北上して足尾銅山足尾銅山から細尾峠を越えて日光経由で大谷、大谷から小山に戻るルートで小旅行しました。足尾銅山では松木渓谷を歩いてみる予定でしたが、天気が悪く断念しましたので大谷地下採掘場のみの記事とします。

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一人の職人が切り出せる石材の量は一日あたり12本前後で、1950年前半に機械化が検討されましたが当時は不況下で機械化するよりも人件費のほうがやすかったため見送られました。1950年後半に機械化が始まり、1960年に全ての採掘場で機械化が完了し約2倍の生産量になったようです。

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戦中は航空機製造の秘密の地下工場として活用され、終戦後は米の保管庫として活用されました。1979年より一般公開され音楽や芸術イベントが開催されるようになります。 

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地下の巨大空間という非日常的な雰囲気は十分でしたが、過去に使われたMVや映画などに撮影に使われましたという宣伝がうるさく、照明や展示にも統一感がない点は残念に思います。