滑川温泉福島屋(2017.7)

7月中旬に五連休を設定して東北を巡ってみました。その記録は追って公開する予定ですが、今回は滑川温泉福島屋に関してです。

国道13号線(万世大路)板谷峠の県境付近から約10kmほど南西に進んだところにあります。板谷駅周辺の小さな集落を過ぎると民家等は全く存在せず、約4kmほど離れた峠駅が最も近い外界といったところでしょうか。

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 滑川温泉温泉は1742年(文明8年)に斎藤盛房が川で足を滑らせ転倒した際、その時の石が温かかったことで温泉が発見されたそうです。1763年(宝暦13年)に笹木正直(初代当主)が米沢藩の許可を得て開湯しました。

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自動車でアクセスできるとはいえ、かなりの山奥に位置しているおり電力会社の送電を受けることができないため、旅館の目の前を流れる前川に自家製の18kWの水力発電機(一般家庭7軒分の電力量に相当)を設置することによって電力を確保しています。テレビは仙台の各局が写りますし、NTTdocomoのLTEFOMAも若干強度が弱いですが携帯電話も問題なく通信や通話ができます。道路も舗装されていますが、所々で狭い箇所がありますが100mくらい後退すれば行き違いも可能です。

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今回の訪問は行程の都合で湯治宿らしくゆっくりとした時間を過ごすことができませんでした。近くには1941~1970年に採掘された渇鉄を産出した滑川鉱山*の跡地があるようですし、併せて再訪問したいと思える温泉宿でした。

 *滑川鉱山は含有率53%を誇る高品質な鉱山で、戦中は軍需資源として開発され、戦後も東北屈指の鉄鉱山として名を馳せ復興を支えました。一日あたり約100トンの取扱量があり、峠駅までは索道、峠駅から東新潟港までは鉄路、東新潟港から北九州までは海路にて八幡製鐵所まで運んだようです。

切明温泉・河原の湯(2017.6)

少し更新間隔が空きました。今回の訪問先の切明温泉は長野県栄村にあり、秘境100選にも選ばれている秋山郷の最も奥に位置する場所にあります。高崎でレンタカーを借り、越後湯沢、津南町を経由して国道405号線へと進みます。秋山郷秩父の記事に続いての平家落人伝説となりますが、壇ノ浦の戦いに敗れた平勝秀が落ち延びたとの言い伝えが存在しています。

秋山郷とは13の集落の総称で、東西を険しい山に挟まれ、南北を中津川が深い谷底を流れます。僅かに存在する比較的傾斜の緩い場所や平地に集落が点在しています。

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国道405号は群馬県にある野反(のぞり)湖から流れる中津川に沿って整備されており、先述の各集落を経由しつつ上流へと向かい切明温泉まで車の通れる道は続います。道路は細く曲がりくねっており決して快適な道路とは言えませんが、それでも通年に渡って人や物が往来できる道路の存在意義は大きいため雪のない時期は補修工事、雪がある時期は除雪が常に行われている生活に不可欠な道路になります。

なお、切明温泉野反湖の約15kmも国道ではありますが車両通行できない点線国道となっており、約7~9時間を要する登山道になります。ちなみに関東地方を水源とする河川において野反湖(中津川→信濃川)と尾瀬沼(只見川→阿賀野川)だけが日本海へと流れ、それ以外の河川は全て太平洋側へと流れています。 

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切明温泉の名物といえば「河原の湯」です。各自が川を掘って湯船を作ります。至る所で温泉が湧いているので川の石を掘り返して湯船を作り、好みの温度となるように川の水を適宜取り込む構造となるように工夫します。しかし、この日は川の水が多かったのか、それとも掘る場所が悪かったのかは分かりませんが、なかなか良い場所を見つけることができず足湯程度の湯船しか作ることができませんでした。 (ネット上を調べた感じだと湯気が立っているので当日は水が多かったのかなぁと思います)

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その後は林道秋山線・渋峠草津を経由して高崎へと戻りました。

秋山郷各集落の住民の数は大都市と比べると非常に少ないもので、それだけの人数のために予算を組むことは必要のか?という問題が生じます。あくまでも個人的な意見ですが、そこに人が住んでいる以上は程度問題であれ生活を維持するために費用を投じるべきだと思っています。田舎があるから都市が成立する訳で採算性だけで論じてしまうことは疑問に思います。例えば採算性(効果)だけで考えたとき、訓練でしか使われることなく廃車を迎える消防車は街に不要であっと考える人は少ないのではないでしょうか。

阪神淡路大震災東日本大震災熊本地震などにおける災害復旧の速さに対する賞賛を多くの機会で目にしますが、その工事をしている人は誰でしょうか?それは皆さんの忌み嫌う公共事業と土木や建築に携わる人達なのではないでしょうか?

最後になりますが「程度問題」という曖昧な言葉に逃げていることは百も承知です。常に自分が都市のインフラを享受し続ける強者であり続ける自信の根拠を考えてみてはどうでしょうか?「コンクリートから人へ」のスローガンが懐かしく思いますが、人の生命や財産や経済活動を守るコンクリートの存在も忘れてはいけないと思っています。

青島(2017.4)

愛媛県大洲市の青島に行ってきました。実は青島へ行くのは二度目で、一度目は波浪注意報で渡船が欠航でした。その時はwillerの1km=1円キャンペーンでの移動でしたので、失ったのは48時間と1000円くらいでしたが、今回は念入りに天気予報を確認して直前に飛行機や宿の予約をいれました。

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松山駅を始発列車で西へと向かい、下灘駅などの風光明媚な瀬戸内海の景色を眺めつつ伊予長浜駅で下車します。松山駅の時点で感じていましたが、全員が伊予長浜駅で下車しました。極端に交通の選択肢が限られる場所だとよくあることなのですが、朝から晩までほぼ同一行程になると自然と仲良くなりますよね。

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青島への渡船は乗船定員34名で、午後便は午前便で島に行った人の数を引いた人数になります。原則として島民の乗船が優先される旨が明記されています。観光船ではないので仕方がありませんが、午前便で島に着くと約8時間の滞在になりますが、時間の持て余しかたに苦労します。

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小さな島に島民が15人しか住んでいないので島には自動販売機や商店もありません。同じ猫島として有名な田代島や男木島などと比べると、ハードルが高いです。午前便は運行しても午後便が波浪注意報などで欠航することもあるようなので、とにかく天気に注意が必要です。

旧浦山村茶平集落(2017.4)

今回は埼玉県秩父市にある茶平集落を訪問しました。茶平集落に関しての記事を考えていましたが、茶平集落を含めた浦山地区の歴史に興味を惹かれましたので今回は茶平集落の写真を交えつつ浦山地区について紹介します。ちなみに浦山という地名の由来ですが、武甲山の裏にあるため裏山、それが転じて浦山という地名になったと言われており、江戸時代中期に執筆された「新編武蔵風土記稿」が最も古い記述とされています。

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秩父盆地から浦山川沿いに外れた浦山地区の歴史は深く、特に最も上流に位置する冠岩集落は、平将門の一族が逃げ延びた集落といわれています。1400年代に建立された落武者を供養するための碑が現在でも残っているようです。源流となる鳥首峠を越えた先は関東管領上杉氏の重臣で、平将門の子孫を名乗る青梅を本拠地とする三田氏(諸説あり)の所領でした。今回は割愛しますが、その青梅や奥多摩には平将門に関する伝説の多い地域でもあります。

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現在の浦山地区は浦山ダム建設によりダム周辺を指していますが、残念ながら湖底に沈んだ集落もあります。その一つが川沿いにあったために水没した寄国土(ゆすくど)集落で、ダムの湖岸を走る埼玉県道77号のトンネルの名前に引継がれ今日まで集落の存在を伝えています。調べた限りで判明している水没した他の集落は、大岩下(おおいわした)・土庄(つちしょう)・道明石(みちあかし)・森河原(もりがわら)の集落です。 

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茶平集落のように山の中腹に集落があったため水没を免れた集落であっても廃村となった集落が幾つもあります。江戸時代中期には裏山地区全体で約17集落に約180軒の規模を誇りましたが、残念ながら今日では辛うじて幾つかの集落は残すのみとなっています。

以前紹介した峰集落ですが、入植者は秩父から来たとされていますので、もしかすると遠い繋がりがあるのかもしれませんね。

大井川鐵道井川線(2017.3)

前回からの続きです

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井川駅より大井川鐵道井川線に乗車し尾盛駅へ向かいます。尾盛駅秘境駅として有名で、現在は周囲には人家がなく駅にアクセスする道路もありません。嘗てはダム建設関係者や林業関係者に利用されたようで、駅周辺には幾つかの石積みの擁壁と廃屋が残されています。

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駅には「茂る緑に豊かな社業 駿遠林業株式会社 尾盛造林所」の看板が辛うじて残っており、調べてみると現在の株式会社スンエン(本社:静岡県島田市)だそうです。詳細は不明ですが、最盛期には小学校や診療所もあったようです。

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今さらではありますが簡単に井川線の歴史を紹介します。

1935年に大井川ダム建設のための資材輸送手段として、大井川電力の出資によって千頭~奥泉堰堤で開通し、翌1936年にはダムの完成により木材で筏を組んで下流に運ぶことが出来ないため木材の輸送手段として転用され1067mmに改軌されました。

1951年からは中部電力が所有することになり、現在の井川線の全線に当たる1954年に千頭~井川~堂平の全線が開通し、奥泉発電所や井川ダムの建築資材を輸送を開始しました。

しかし1966年には木材搬出の拠点であった堂平駅と井川駅~堂平駅間が廃止され、貨物輸送がほぼ終了しました。現在でも少量の貨物輸送を行なっています(いるらしい)が、この時より旅客輸送がメインとなりました。接阻峡から奥泉の小学校などへの通学利用客もいるようですが、ほぼ観光客の運賃収入(定期外収入)に需要に依存しています。なお中部電力は年間約三億円の赤字の補填を行っています。

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1990年に長島ダム建設にともなうルート変更が行なわれ、日本最急勾配となる90‰の急坂となる最短ルートが採用されました。‰は鉄道で用いられる勾配ですが、千分率(‰)を道路で用いられる百分率(%)に変換する時はゼロを後ろから取るだけですので9%となります。1000mの距離で90mの高さを登る坂道(100mで9mの高さ)は車でも急坂ですが、特に坂道に弱い鉄道では一般的なレールと車輪の摩擦抵抗に頼る車両では登攀できないので日本で唯一のアプト式機関車で対応します。僅か一区間だけのための線路設備と電気機関車を用意することは非効率に思われますが、勾配緩和のための迂回等で対応を建設するよりも早くて安かったようです。